復活!メディカル憩室

延命効果 (メディカル憩室その1)

 癌細胞は自己の細胞が癌化したものです。自己というところと細胞というところがミソです。

 

 細胞ですから1個では目に見えません。数億個に増殖しないと超音波やCTやMRIなどの画像診断では見えないのです。
 したがって癌が見つかった時点で、見えているものの他の部位にも無数の見えない病巣がある可能性が非常に高いわけです。
 へたな鉄砲も数打ちゃ当たるという真理はここでも正しく、癌病巣の多い症例の方が生存率は低くなります。
 また、癌細胞は自己から変化したものですから、体の免疫機構から攻撃されることも少ないわけです。

 

 

 治療は見えている癌病巣に対するものと、見えない癌病巣にも効果のあるものの2種類があります。
 前者は手術が代表的なもので、塞栓療法・放射線療法・アルコール注入法などもこちらに属します。
 後者は化学療法、いわゆる抗がん剤・免疫賦活剤が代表的なものです。

 

 これらの療法を駆使して癌細胞と戦うわけですが、病巣が一時的に小さくなることはよくあります。
 主治医は自分の治療が効くと快感あるいは安堵を覚えます。

 

 しかし、こうした例でも続けて快感を得ることは次第に難しくなってきます。
 なぜなら次回はこれに耐えて生き残った細胞が分裂して大きくなった病巣を相手にするわけですから、同じ治療を続けると効果は悪くなってくるのは当然なのです。
 快感を得ようとする主治医は、量を変えたり方法を変えたりして対処することになります。こうして治療はだんだんと過剰になっていきます。

 

 癌患者の多くは最終的には不幸な転帰をとります。癌そのものによって死ぬことが多いわけですが、過剰な治療による死亡も決して少ないわけではありません。
 治療によって死ぬとは、たとえば抗がん剤を使ったために白血球が減少し肺炎にかかって死んでしまうケースなどです。
 つまり、治療を行なうたびに体力が落ちていき、やがて退院できるだけの体力も失うと、患者は生きては帰れなくなるのです。
 治療を行なわないと癌によりじわじわと体力を失って行きますので結局同じことのように思われますが、どちらの体力の失い方のほうが速いかということも重要です。
 速度だけでなく、同じ分だけ体力を失うとしても急に体力が落ちるのと次第に落ちるのとでは、体に対する影響は相当違います。

 

 「治療はしたが患者は死んでしまった」という場合、医者や看護婦が頑張ってくれたからと家族はたいがい満足します。

 

 でも、本人にとってはどうだったのでしょうか。
 余命6ヶ月と思われた患者が入院して治療をしたところ9ヶ月生きることができたとしましょう。これで患者は3ヶ月トクをしたのでしょうか?

 

 家族とともに家庭で6ヶ月暮らすのがいいのか。それとも3ヶ月長く生きるために、狭い病室に押し込まれて同室患者に気兼ねして好きなこともできず、入院期間の大部分はきつい治療のために体に何本も点滴をくくりつけられてベッド上安静をしいられ、あげくの果てに面会謝絶という軟禁状態に置かれるはめになるほうがいいのでしょうか。

 

 欧米の医者に自分が癌になったらどうかというアンケートをとると、ほとんど全員が前者をとると言われます。

 

 大学病院やその病気の権威のいる「大病院」では、治療成績を上げるためにきつい治療になりがちです。
 完治する見込みがある、あるいは正常な生活が送れる期間を伸ばす「真の延命効果」が期待できるときは、体力のあるうちに効果的な治療を受けるのがいいでしょうが、日本の大病院の場合は手遅れの症例にまで不必要なほどきつい治療を行なってしまう傾向があります。

 

 これは告知の問題とも関係してきます。手遅れとはっきり言わないために、患者が日々悪くなってくる自分の病態に対して「十分な治療をしていない」とか「診断が誤っているのではないか」とか、つまり「おまえはヤブだ」と言って自分を非難しないかと恐れて、つい過剰な治療をしてしまうわけです。

 

 手遅れの患者に過剰な治療を施すことは、患者の残り少ない自由な時間を奪うだけでなく、患者から不要な医療費を負担させる(=おカネをむしりとる)ことにもなります。

 

 患者の負担金が保険でまかなえるものであるからいいじゃないかという人もいますが、患者の負担以外の分は我々の血税なのですから、日本国民全員からカネをむしり取っていることになるのです。

 

 きちんと告知して残りの人生を有意義に送らせることで、こうしたダブルの悪弊は確実に減らせると思われます。

 

 もちろん、告知しない方がいいケースがあることも事実ですので、医者もその見極めが大変なのですが。