京都大仏について
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最終更新日:2017/08/21
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今朝 01/09(月) テレビ朝日の「羽鳥慎一モーニングショー」で京都大仏の話をやっていました。
> 京都・謎解き散歩・秀吉が建てた日本一の大仏とは?」
「良純未来図」というコーナーで、「京都・謎解き散歩・秀吉が建てた日本一の大仏とは?」というタイトル。
案の定、大切なポイントが抜けていました。
まあ、私も昨年「歴史秘話ヒストリア」で知ったことが多いのでエラソーには言えませんが。
以下、簡単に解説します。
*
京都大仏(東山大仏)は4回作られました。
1回目は豊臣秀吉が最初は東福寺の南(ほとんど伏見)に作ろうとしたのですが、計画が変更され、当時の佛光寺の境内に寺とともに建設(佛光寺は現在地に移転)。これでできた新寺が「国家安康」の鐘で有名な方広寺です。今の国立博物館あたりですね。
この大仏は奈良の大仏(高さ14m)より大きく(さすが秀吉の見栄っ張り)約19mの高さがありましたが、木製のためか1年後地震で倒壊。大仏殿は倒壊しなかったのに、中の大仏が倒壊したので、秀吉が怒って落ちた大仏の頭を蹴ったという話がありましたね。
2代目の大仏は銅製でしたが、開眼式のときに例の「君臣豊楽 国家安康」の鐘の事件が起き、50年後に開眼しないまま江戸時代に地震で倒壊。
3代目は木造で再建されたが、130年後今度は落雷で焼失。
江戸時代に大仏と言えば、奈良の大仏でなく ましてや鎌倉の大仏でなく、この東山大仏のことを指していました。
番組では4代目の”小さな大仏”は昭和まで残っていたとコメントしていましたが、4代目は上半身のみの木造で、建造後130年で昭和48年に火事で焼失しています。
番組では豊国神社にあったように誤解されるような言い回しがありましたが、もともと方広寺の敷地内に豊国神社が作られたのです。
豊国神社は秀吉が死んだ後に作られ、一度は家康により廃絶し江戸時代には全く存在していないわけです。
明治天皇が再興されて今の豊国神社があるのです。
明治30年には西の阿弥陀ヶ峰山頂に五輪塔が作られ、今ではこちらが豊国神社みたいに思われているのではないでしょうか。
この五輪塔の道をはさんですぐ北には京都女子大があります。うちの娘はここの中学~大学に通ったので、私もたまに五輪塔には行きました。
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京都大仏、そろそろ5代目を作ったほうがいいのではないでしょうか。
仏像の宝庫である京都に大仏がないことがとっても残念です。
今度はオリハルコン製がいいなぁ。
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