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マル(句点)の使い方

よくこんなふうな所見を見かけます。(図1)

でも私はこんな風に書きます(図1)。

句点(。のこと)は文章の終わりを示すものです。

日本人の発明で、今では中国に逆輸入されているそうです。

句点は文章の終わりを表すので、句点の前と後は別の文章です。

胆嚢結石を認めます。(図1)

肝嚢胞を認めます。

と書くと、図1 は肝嚢胞を示した図でないとおかしいです。

え、改行しているから図1は胆嚢結石の文に付属しているって?

改行は印刷の都合で非明示的になされることもあります。長い文章の途中で勝手に改行が入ることもあります。

だから上の文章は、

胆嚢結石を認めます(図1)肝嚢胞を認めます

と等価で、図1は胆嚢結石とは無関係で、肝嚢胞の文に従属しています。

でしょ?

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散見する?散見される?

散見する?


 画像診断の所見で「嚢胞を散見します」という記述を見ることがあります。

 明治製薬の文豪もこういう使い方をしていたという指摘があります。

 「散見する」とは「ちら見をする」ということではありません。

 「散在しているのを見る」ということです。

 主語=Subject=「S」、対象=Object=「O」とすると、

 「O」が散在する光景を「S」が見る。

 つまり、「S」が意識して「散見」できるわけではないのです。

 「オレは嚢胞を散見するぞ」と言っても嚢胞が散在していなければ、「散見する」ことはできないのです。

 もともと「S」の存在は希薄です。

 じゃあ、「O」が散在する、その光景が見られる(受け身)として、「S」(診断者)の存在を消してしまえばいいでしょう。

 「「O」が散見されます」とすればいいわけで、「散見する」という他動詞は主に受動態で使うことにすればいいのです。

 「嚢胞を散見します」→「嚢胞が散見されます」と私はこれからも書きたいと思います。

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